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Early life of Elizabeth Blackwell  


エリザベス・ブラックウェル (学習漫画 世界の伝記NEXT)エリザベス・ブラックウェル (学習漫画 世界の伝記NEXT)
(2011/07/05)
堀ノ内 雅一

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エリザベス・ブラックウェル (学習漫画 世界の伝記NEXT)
漫画:東 園子  シナリオ:堀ノ内 雅一  監修:橋本葉子
出版:集英社(2011年7月10日発行)
 
伝記漫画のプロットへ遡及するイメージで、生誕~少女時代~24歳までのエリザベス・ブラックウェルの生い立ちを記述する。ページ末のリンク先を参考にして適宜補足、修正を入れてある。
 
 
1821年2月3日、イギリスのブリストルで11人姉弟(2人は生後間もなく亡くなっている)の三女としてエリザベスは生まれた。エリザベスはフローレンス・ナイチンゲールより一歳若い。
 
エリザベスの父は製糖工場を営んでいた。そして進歩的なリベラリストであった。当時、イギリスでは女性は男性より能力が劣るとされ、教育を十分に受けさせてもらえないことが多かった。しかしエリザベスの父は子供たちに男女の区別なく勉強をさせた。パブリック・スクールには通わせず家庭教師を雇っていた。
 
エリザベスは元気な少女で、大きくなったら誰もやったことのないことをやりたかった。父はエリザベスの最大の理解者であり、エリザベスは父のことが大好きだった。
 
1831年、政治的な理由によりブリストルで大きな暴動が起きた。また工場の経営状態も悪かった。また1831年か1832年かは不明だが工場のかまどから火が漏れ、工場が全焼した。これらが要因となり1832年8月、ブラックウェル家はアメリカ、ニュー・ヨークへ転居することを決めた。
ukny[2]
©google

船の中でエリザベスはコレラとチフスにかかった病人たちを目にした。病人たちは不潔な船の一室に集められ、死を待っていた。この体験はエリザベスに大きな影響を与えた。
cholera.jpg
The S.S. England Page
cholera2.jpgUniversity of Warwick
エリザベスの父はアメリカでも小さな製糖工場を始めた。そして奴隷制度廃止運動に熱心に参加した。エリザベスは父のリベラルでラディカルな思想に共感していた。ブラックウェル親子は、後に『アンクル・トムの小屋』を書くことになるストウ夫人にも出会った。
 
1836年、父の砂糖工場が全焼した。1837年にはアメリカに恐慌が訪れた。父は過労で倒れた。ブラックウェル一家は使用人を解雇し、1838年、オハイオ州シンシナティへ引っ越した。その3週間後の1838年8月6日(wikiでは7日)、エリザベスの父は胆管発熱から急死した。
 
「エリザベス。人間にはね、ひとりひとり役目があるんだ。パパにはパパの、おまえにはおまえの。自分の役目はなんなのかを探しなさい。自分はなにができてなにをすべきなのかを見つけなさい。それが自分を生かすということだ。エリザベス、自分を生かす道をまっすぐ進め。自分の道は自分で決めるんだ。」
 
父は多額の借金を家族に残した。エリザベスと2人の姉はプライベートスクール” The Cincinnati English and French Academy for Young Ladies”を開いた。「私たちと同じように勉強したがっている女の子の為に!」そして弟は裁判所で仕事を見つけた。
 
1845年、エリザベスが24歳の時、癌(子宮癌とみられる)におかされた近所の友人を見舞っていた際、その友人から医者になることを奨められた。「どうしてこんなことをいうのかというとね。私が女性のお医者様に診てもらいたかったからなの。男性の先生にはやっぱり恥ずかしくて……もしお医者さまが女性だったらもっとたくさん相談できたと思うのよ」最初はエリザベスもそのアイデアを受け入れられなかった。しかし心変わりし、エリザベスは医者になることを決心した。
erizabeth.jpg©東園子・堀ノ内雅一
 
参考:Wikipedia, World Biography, about.com
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Early life of Florence Nightingale.  


ナイチンゲール (コミック版世界の伝記)ナイチンゲール (コミック版世界の伝記)
(2011/08)
坂本 コウ、日赤= 他

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ナイチンゲール (コミック版世界の伝記)
漫画:坂本 コウ  監修:日本赤十字社  出版:ポプラ社 (2011/08)

伝記漫画のプロットへ遡及するイメージで、生誕~少女時代~27歳までのフローレンス・ナイチンゲールの生い立ちを記述する。ページ末のリンク先を参考にして適宜補足、修正を入れてある。

フローレンス・ナイチンゲールは、1820年5月12日、イタリア・フィレンツェ郊外で生まれた。両親はイギリス人。2人姉妹の次女だった。
firense[1] 
フローレンスの父は大地主であり鉛の鉱山も持っていた。上流階級のお金持ちだったので働かなくても良かった。フローレンスが生まれたときは、ほぼ3年に渡るイタリアを旅行の途中だった。1821年にナイチンゲール家はイングランドへと戻った。夏は涼しいリーハースト荘、冬は暖かいエンブリー荘で暮らし、春・秋にはロンドンへ訪れた。
uk[2]
↓フローレンスが夏の間暮らしたお屋敷。
nightingale.jpg
リーハーストとエンブリーの2つの屋敷にはいつも大勢の親戚が来ていて、とても賑やかな暮らしをしていた。姉のパーシーは子供らしく活発。フローレンスは内気で思い込みが強く人見知り。しかし優しい子供だった。
florence-nightingale-2.jpg©Hampshire County Council
1933年より、フローレンスの父は娘たちに自分で勉強を教えた。ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、フランス語、イタリア語などの語学。また、歴史、哲学など多くの科目があり、学校で習うものより遥かに進んでいた。姉のパーシーは勉強が好きではなかったが、フローレンスは熱心に勉強をした。親戚たちは「勉強もいいが、女性にとってはさほど役に立たない。お洒落をして社交界に出るべきだ」とフローレンスに注意していた。

1837年2月7日、フローレンス16歳の時。彼女は天啓を受ける。「フローレンス。お前は私に仕えなさい。そしてお前にしか出来ないことをなすのです」しかし具体的には自分が何をなすべきかまだ分からなかった。
 
9月、ナイチンゲール家はヨーロッパ旅行へと旅立つ。両親は言った。「二人ともそろそろ社交界に出る歳でしょう。でもこの家じゃ狭すぎてお客様を沢山はもてなせないわ」「そこでだ。家を建て直す間に旅行に出よう。色々なものを自分の目で見るいい機会だ。外国語の勉強にもなるだろう?」一家はイタリア、フランスなどを旅し、豪華な社交パーティへと次々と呼ばれ、歓迎された。しかしその間も博物館や美術館へ通い、専門の教師に勉強を教わっていた。
1839年4月、ナイチンゲール家はイングランドへと戻る。しかし、社交界の忙しさは変わらなかった。フローレンスは優雅でスレンダーで大変魅力的な女性だったが「毎日賑やかなパーティばかりでいいのかしら……人の役に立つ仕事がしたいわ」と密かに悩んでいた。フローレンスは1842年、社交パーティにてRichard Monckton Milnesと出会う(Bio.comでは17歳の時とされている)。リチャードはフローレンスを自身の行っていた慈善活動へと誘った。活動を通じてフローレンスはリチャードに惹かれていった。フローレンスは積極的に近くの村に通い、病人の世話をした。そして、病人の役に立つことが「神の言葉」に従うことだと感じ始めていた。
 
↓フローレンスと姉のパーシー
1844年~1845年、フローレンスは具合の悪くなった祖母や乳母の看病を通じて、正しい看護の知識と経験の必要性を感じる。そしてソールズベリー(イギリス南部)の病院で看護を学びたいと家族へ申し出る。家族は驚愕し、悲しみ、反対した。「お母様、フローがおかしくなったわ!」「なんて恥知らずなことを……」「病院はレディが行くようなところではないのだ!」当時の病院は貧しい人、身寄りのない人の行くところであり、また大変不潔だった。看護師は恥ずかしい職業だとされていた。フローレンスは病院行きを断念した。しかし家族に内緒で夜中に勉強をした。
 
家族はフローレンスが余計なことを考えないように家の仕事を沢山言い付けた。フローレンスは家の仕事も夜の勉強も懸命にはげんだ。しかし、1847年春、フローレンスは心身に変調来たし、昏倒した。

↓Drawn by her sister Parthe.
 
参考サイト:

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1894年から1900年(日清戦争から19世紀の終わりまで)の世界 オセアニア編  


オセアニア編


ハワイ
19
世紀末の
ハワイ王国では王権派と親米勢力が対立していた。1893年、親米派によるが起こり、翌年ハワイ共和国が成立。1898年には自治領としてアメリカ合衆国に併合された。

その他
1900年、トンガ王国ニウエ王国がイギリスの保護領となった。これをもって、無人島も含めたオセアニアの全ての島々が列強の領土となった[1]。(ニューギニア島西部より西は東南アジア編で扱う)

マリワナ諸島1899)、カロン諸1899)、ニューギニア島北東部、マーシャル諸島ナウル島ソロモン諸島北部(1900年まで)、サモア諸島西部(1899

                  ドイ                   

地図データ ©2013 Google, INEGI, MapLink, Tele Atlas

オセアニア[1]

 アメリカ領 

ハワイ諸島
1898)、
グァム島1898)、サモア諸島東部(1899)、西部ライン諸北部(1898

スペイン領
[2]

カロリン諸島(1899まで)、マリワナ諸島(1899まで)

               イギリス領               

ニューギニア島南東部、オース、ソロモン諸島(北部は1900年~)、バヌアツ(仏と争奪)、ギルバート諸島フェニックス諸島ライン諸島南部[3]エリス諸島トケラウ諸フィジートンガ諸島1900ニウエ1900)、クック諸島ノーフォーク島ニュージーランピトケアン諸島

   フランス領   

バヌアツ(英と争奪)、ニューカレドニアウォス・フツポリネシ




ハワイ王国最後の女王となったリリウオカラニは「アロハ・オエ」の作曲者である。

 Amy Hanaiali`i - Aloha `Oe
 Aloha 'Oe by テレサ・ブライト


[2] 19世紀末、スペインはかつての力を弱め、オセアニアに於いても領地を他の列強に奪われていた。

[3] ギルバート諸島、フェニックス諸島、ライン諸島南部は現在のキリバス共和国にあたる。参照:外務省Wikipedia太平洋諸島センタ


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1894年から1900年(日清戦争から19世紀の終わりまで)の世界 東アジア編  

東南アジア編[1]    

東アジア

1894

朝鮮国内で反体制人民蜂起が起こる。(甲午農民戦争)これを鎮める為に朝鮮は事実上の宗主国である清に出兵を要請する。時を同じくして大日本帝国も公使館警護と在留邦人保護の名目に朝鮮へ出兵する。清と日本は朝鮮半島で対峙することとなり、それが日清へと発展する。

1895

日清戦争は日本の勝利で一時終結。417日に日清間で条約が結ばれる。この条約の定めるところにより朝鮮国は清より。日本は2億両≒3億円という多額の賠償金[1]と遼東半島、台湾、澎湖諸島などの領土を得る。しかし数日後、ロシア、ドイツ、フランスの圧力(三国干渉)があり、日本は遼東半島を清に返還した。

1896年~

日清戦争の敗北で弱みを見せてしまった清は列強によって次々に領土を租借され、数年の間に植民地状態になってしまった。

半植民地[1]

大連、旅順

ロシアが租借(1898

威海衛

イギリスが租借(1898

膠州湾

ドイツが租借(1898

朝鮮半島

大韓帝国として独立(1897

台湾

は見せるも結果的に、日本の領地となる(1895

香港、九龍半島

イギリスが租借(1842,1898

広州湾

フランスが租借(1899




















1900

相次ぐ列強の清への進出に対して清の国内で、義和団なる排外主義宗教団体が「扶清滅洋」を掲げ、排外運動を見せていた。西太后はこれを始めは取り締まろうとしていたが、支持に転じ19006月に列強8か国へ宣戦布告。しかし列強の連合軍によってすぐに鎮圧された。清は莫大な賠償金の支払いを命じられることとなる。



[1] 1895年(明治28年)度の日本の予算は約9200万円であるのでその3.26倍の金額である。参考までに2012年(平成24年)度の日本国の歳入予算は約903339億円である。

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